
「これが、社長の見る景色か」
その日、オフィスで聞こえた一言が、なぜかずっと頭に残っている。
言ったのは社長ではない。
いつも明るく、誰とでも気さくに話す社員Kだ。
―ある日、社長の椅子が新しくなった
私たちの会社には社長室がない。社長も社員と同じ空間で働いている。そのため、新しい椅子が届いたことは自然と周囲の話題になった。
梱包が解かれ、真新しい椅子がデスクの前に置かれる。
そのとき、社長は外出中だった。
誰も座っていない新品の椅子を見ながら、Kが言った。
「ちょっとだけですよ」

そう言うと、周囲の笑いを誘いながら椅子に腰を下ろした。
背もたれに身体を預け、ゆっくりと前を見る。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「これが、社長の見る景色か」
その場にいた全員が思わず笑った。
けれど、あとになって思う。
あの言葉は意外と本質を突いていたのかもしれない。
―椅子は役割や責任を象徴する存在
考えてみると、私たちは昔から「椅子」に特別な意味を与えてきた。
社長の椅子。
役員の椅子。
次の椅子を狙う。
椅子を守る。
椅子を譲る。
どれも家具の話ではない。
立場の話であり、責任の話だ。
政治の世界でも議席は「Seat」と呼ばれる。
椅子とは不思議なもので、昔から立場や責任の象徴として使われてきた。
だからKは無意識のうちに感じたのかもしれない。
その椅子の向こう側にあるものを。
―その椅子から見えるもの
同じオフィスで働いていても、見ている景色は少しずつ違う。
営業担当には営業担当の景色がある。
管理職には管理職の景色がある。
そして社長には社長の景色がある。
もちろん、窓から見える風景が変わるわけではない。
けれど、その席から見なければならないものは変わる。
今日の数字だけではない。
来月の計画だけでもない。
数年後の会社の姿。
社員の成長。
お客様との約束。
会社の未来。
社長の椅子とは、そうした景色を見るための場所なのかもしれない。

―社長はなぜ、椅子を替えたのか
後日、新しい椅子について社長に聞いてみた。
「新しい椅子、どうですか?」
すると社長は笑いながら答えた。
「いやぁ、実は腰痛でね」
その場は一気に笑いに包まれた。
壮大な経営戦略があったわけではない。
働き方改革の象徴というわけでもない。
理由はとてもシンプルだった。
腰痛対策。
長時間のデスクワークや会議の積み重ねで、身体への負担が大きくなっていたのだという。
その答えを聞いて、少し安心した。
社長もまた、私たちと同じ一人の人間なのだ。
会社の未来を考える人も、まずは身体が資本である。
―働く環境を整えることは、働く人を支えること
そして、改めて思った。
私たちはオフィスをつくる仕事をしている。
レイアウトを考え、家具を選び、会議室やコミュニケーションスペースを提案する。
けれど、本当に届けているのは机や椅子そのものではないのかもしれない。
そこで働く人が、少し快適に働けること。
少し集中しやすくなること。
少し会話が生まれやすくなること。
少し前向きな気持ちで一日を過ごせること。
働く環境を整えることは、働く人を支えることでもある。
社長が椅子を替えた理由は腰痛だった。
とても人間らしく、とても現実的な理由だ。
しかし、その一脚が毎日の働きやすさを支え、より良い判断やより良い仕事につながるのだとしたら、それもまたオフィスの持つ価値なのだと思う。

―社長の椅子が新しくなった
きっかけは腰痛だった。でも、私の記憶に残っているのは椅子そのものではない。
あの日、新しい椅子に最初に座ったKの一言だ。
Kは家具を販売する営業である。
椅子のことなら誰よりも詳しい。
座り心地や機能について語ってもおかしくない。
それなのに、彼の口から最初に出てきたのは椅子の話ではなかった。
「これが、社長の見る景色か」
椅子の話なのに、最後まで景色の話になった。
でも、その一言が、今でも妙に印象に残っている。
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