東京・日本橋に店を構えて320余年の鰹節専門店「にんべん」。
江戸の交易を支える商いの中心地で、歴史の荒波にもまれながらも新しいチャレンジを柔軟に続け、伝統の味を守ってきました。老舗から見た日本橋の魅力や時代に応じて変化した企業としての取り組み、さらには日本橋の未来などについて、にんべん13代当主で代表取締役社長の髙津 伊兵衛(たかつ・いへえ)氏にお話を伺いました。
――東京・日本橋は、320年余の歴史を持つ鰹節専門店「にんべん」の原点となる創業の地ですね。
髙津: 創業者の初代・髙津 伊兵衛は、三重の四日市の生まれで、12歳で江戸に上り、日本橋小舟町の雑穀商「油屋太郎吉」で年季奉公をしていました。20歳のときに日本橋四日市の土手蔵で、戸板を並べて鰹節と塩干類の商いを始めました。それが1699年(元禄12年)で、この年を「にんべん」の創業年にしています。
苦労を重ね、その5年後に小舟町で鰹節問屋を開業、さらに10数年後、現在のにんべん本社がある日本橋瀬戸物町(現室町)に鰹節の小売の店を構えました。今日でも江戸時代から伝わる手火山式という伝統製法を継承し作られている本枯鰹節にこだわっています。
――創業310周年の2009年、代表取締役に就任。2020年に、13代伊兵衛を継がれました。初代の名前を代々継ぐというのは、老舗ならではですね。
髙津: 戸籍まで変えているので、なかなか大変なのですよ。先代が亡くなり、そのあとに変更するという手続きでした。
まだ昔の名前で呼ぶ人のほうが多いですが、いまはあえて、「伊兵衛さんと呼んで」とお願いしています。皆さんから親しまれるようになるといいのですが……。――やはり日本橋に対しては特別な思いがあるのではないでしょうか。日本橋で好きな景色はどこでしょう?
髙津: 常盤橋から日銀本館越しに日本橋三井タワーを望む景色が好きです。
COREDO(コレド)室町など新しい建物がどんどん増えて、だいぶ風景が変わってきましたけれど、日銀の昔ながらの建物の背景に高層ビルがあって、その新旧のビルが入り混じって織りなす雰囲気は気に入っています。 春には、中央通りに通じる江戸桜通りは桜の薄紅色で彩られます。
――確かに、日本橋の景色は近年の再開発でかなり変わってきましたね。
髙津: ちょうど三井不動産からここの再開発の話をいただいたのは、2000年前後だったと思います。
それからさかのぼること1973年(昭和48年)、先代に同じような再開発の話が持ち込まれたのですが、そのときは話がまとまらず、それぞれに自前のビルを建設しています。 今回は共同事業として都市再生特別地区の指定を受け、容積率アップなどの恩恵が見込めたので、一緒にやりましょうということになりました。――再開発後の変化は風景以外にもありますか?改めて日本橋の魅力をどうとらえられていますか?
髙津: 街全体に人が増えたように感じています。 以前より多くの方が来てくださるということは、それだけ魅力的な街になっているのだと思います。
いろいろ散策していただくとわかるのですが、昔ながらに商いを続けている店もありますし、新しい商業施設として誕生したビルもあります。 本物がたくさんあって、宝ものを探せるような街ではないでしょうか。 昔ながらの本物がありますね。――なるほど。本物のある日本橋、ですか。
髙津: はい。たとえば、100年単位で商売を愚直にやってきている専門店ですとか、結構マニアックな専門店がありますよね。
料理屋さんでも、創業100年を超えるような鰻屋さんですとか、いくつもあります。 本物を伝え続けて今に至るというお店が非常に多いのも、日本橋の魅力のひとつだと思います。――「にんべん」の店舗や業態の展開においても、本物の伝統・伝承を守りつつ、新しいことへのチャレンジが続いていますね。
髙津: 試行錯誤の繰り返しだと思っています。いろいろやってきて、そのなかのいくつかを支持していただけたのではないでしょうか。
当然のことながら、失敗のほうが圧倒的に多いのですよ。毎年のように新商品を発売しますが、定着させるのはなかなか難しい。「手巻きカツオ」といって、海苔のように巻けるシート状の鰹節をつくり、一世を風靡したこともありましたが、長続きしませんでした。 長く息があるのは、1960年代に発売した「フレッシュパック」と「つゆの素」。先人たちの努力のお蔭で今も生きています。――近年では、お出汁をドリンクのように飲むユニークな「日本橋だし場」をオープンされました。 髙津: 2010年10月、最初に1棟できた「コレド室町」のオープンとともに仮店舗として本店と日本橋だし場を開店しました。
2014年3月に「コレド室町2」と「コレド室町3」ができまして、もともと「コレド室町2」の角地が私どもの旧社屋があった場所なので、当初はそこへ戻るつもりでした。 ところが、表通りの中央通りの仮店舗に、思いのほかお客様がものすごく増えたのです。それで当初の予定を変えて、そのまま居残ることにしました。――お出汁が売れると予想していましたか?
髙津: いいえ、予想していなかったです。 1杯100円で提供していますけれど、最初は本当に売れるかどうかわからず、1日何十杯か出たらいいねということで始めました。
お出汁をジュースやお茶のようにゴクゴク飲めるドリンクにしようと、ブルーベリーなどいろいろなフレーバーも試しましたが、どれも美味しくなくて(笑)。 オープンのほんの数週間前、これは無理だから、まずはお出汁をそのまま提供しようということになってスタートしました。 すると意外や意外、開店当時は毎日1000杯以上出ました。それだけ多くの方に召し上がっていただけるとはまったく想定外で、私たちも目からうろこが落ちる思いでした。――今年9月には、累計販売数100万杯を突破されたとか。
髙津: お蔭様で。お出汁を飲んだお客様の反応がすこぶる良かったのです。
「美味しい」、「ホッとする」、「からだに沁みる」、「日本人で良かった」とか、そういう感想をいただきました。若い方には新しい体験で、ご年配の方からは再発見というか懐かしいという声が多く、否定的な意見はほとんどありませんでした。
2013年に和食がユネスコ無形文化遺産に登録されて世の中の関心も高まってきて、私たちにとっても、出汁を強化するひとつのきっかけになったと思います。
――2014年には「コレド室町2」にレストラン「日本橋だし場 はなれ」をオープンされました。
髙津: 旧社屋の跡地をどう活用するかという課題がありました。
2010年9月、社屋の引っ越しもあってばたばたしているときでしたけれど、アメリカ西海岸のナパバレーでの日本食イベントにスポンサーとして出展する機会を得ました。
主催は、CIA(カリナリー・インスティチュート・オブ・アメリカ=外食産業界のハーバード大と言われる料理大学)で、料理人とともに出汁を使って和食のプレゼンテーションをしました。そこに参加していた飲食企業の方と知り合い、一緒に飲食店づくりをすることになりました。
――海外でお出汁は広まっていたのでしょうか?
髙津: ハイエンドのレストランのトップシェフたちは結構知っていて、定着していました。デンマークの料理人は、鰹節を作る技術を参考に、トナカイ節やシカ節を自ら作っていました。
でも、一般の生活者にまでは根づいていなかったように思います。 弊社の海外輸出の割合は2%程で、この10年でみると、倍増しています。 海外での日本食レストランの急速な広がりもあって、出汁文化を世界に伝えようと、海外展開を強化しているところです。――海外展開するうえで、課題はありますか? 髙津: ニューヨークで、だしドリンクを飲むイベントをやりましたが、反応はなかなか厳しいものがありました。
「香りはいいけれど味がない。これは一体何なんだ」という感じなのです。やはりしっかり味付けしたものを提供しないと難しいのかなとも思っています。
たとえば、タレントの速水もこみちさんと一緒に、洋食にも出汁を使って簡単に本格的なメニューができる商品づくりをしています。 彼が得意なスパイスと出汁を組み合わせていますが、このような現地化、アレンジすることで、海外の家庭にも浸透する可能性はあるかもしれません。https://www.ninben.co.jp/dashiandspice/
――街としての日本橋を考えますと、未来に向けてどんなイメージが浮かび上がりますか? 髙津: 日本橋では、これからさらに始まる再開発プロジェクトがあります。
たとえば、山本海苔さんのところを含む日本橋室町一丁目地区や、洋食のたいめいけんがあった場所から日本橋川を望む日本橋一丁目中地区などで大規模な工事が始まります。 また東京駅の日本橋口前では、日本一高いタワーとして「TOKYO TORCH」の建設が進められる予定だったりして、街としてはまだまだ変わっていくでしょう。 新しい来街者が増えてより活気が出ると思います。 それで、まったく新しいものだけに埋め尽くされるのではなく、古くからあるものがしっかり共存していける街ではありたいと願います。私どもも、日本橋を訪れるあらゆる年代の方々との関わりを増やして、生活のさまざまなシーンで鰹節や出汁をさらに使っていただけるように努めていくつもりです。
後編では、「にんべんが考えるSDGs」について詳しいお話を伺います。
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