日本橋は他にはない「ヒューマンスケールな町」であり続ける

2018年に創業200周年を迎えた、榮太樓總本鋪。

その始まりは、文政元年(1818年)に江戸へ出府した細田家の流れをくむ初代・栄太郎が、日本橋の屋台で金鍔(きんつば)売りを始めたことにさかのぼります。
その後『名代 金鍔』『梅ぼ志飴』や『甘名納糖』『玉だれ』など、栄太郎が創案したお菓子は、日本橋の魚河岸の商人やこの町を訪れる人を虜にして、その美味しさは江戸中に広まったといいます。

新たな時代のニーズを取り入れながら革新を続け、時代を超えて今も変わらぬ人気を誇っている榮太樓ブランド。代表取締役社長の細田将己氏に、日本橋ならでは魅力と未来について語っていただきました。

目次

日本橋の大きな魅力は、「ヒューマンスケールな町」であること

――細田社長が考える、日本橋という町の魅力はどのようなものでしょうか。

細田:3代目細田安兵衛(幼名栄太郎)が日本橋に店を構えたのは安政4年(1857年)のこと。それから現在まで企業も時代の変化を乗り越え、日本橋で成長・発展してきました。それだけに、日本橋には大変思い入れが深く、ここが故郷といえる場所です。

日本橋の風景も、時代とともに変わってきましたが、変わらないのはここに橋があって水(日本橋川)があるということ。かつては、東洋のベニスと言われたほど江戸の発展には、水路、水運が欠かせない重要な役割を果たしてきました。

魚河岸を中心にして、日本橋は町人が支えてきた町なんですよね。そこに、新しい商業や食文化、アート、エンタメなどが生まれ、江戸の町人文化が華開き24時間賑わっていたのです。

初代・栄太郎は、当時、高価で薬としての役割もあった砂糖を、庶民の口に入りやすいようにとお菓子づくりを始めたそうです。例えば『甘名納糖』は、雑豆であった金時大角豆(きんときささげ)を甘く柔らかく煮て、手頃な値段のお菓子として売り出したものです。

いわば、江戸の町人たちの小腹を満たす意味合いがあったんです。その原点を忘れずに、榮太樓も美味しくて気軽に求められる実質本位の本物のお菓子をつくり続けてきました。

「銀座には高級品があり、日本橋には一流品がある」とよく言われますが、日本橋は身近なもので本物を追求し、時代や世代を超えて愛されるような価値あるものを提供する、自由で闊達な「ヒューマンスケールな町」であることが大きな魅力だと思います。

日本橋でしか出会えないものを宝探し気分で発見してみる!
知的好奇心をくすぐる、歩いて楽しい日本橋

――細田社長がおすすめする、日本橋の町の楽しみ方はありますか?

細田:そうですね。やはり日本橋は「歩いて楽しい、発見のある町」ということですね。

日本で一番100年以上の老舗企業が多い自治体とされている東京都中央区の中心地となっているのが日本橋です。江戸の台所を賄う魚河岸もあり、日本橋はまさに商売の発祥の地であり、商業の中心地として、食文化も当時の最先端をいっていました。現代の「グルメガイド」にあたる本も出版されていたほどです。グルメやショッピングなどで、老舗巡りなどをしてみるときっとおもしろい発見があると思います。

日本橋は町人が支えてきた町ですから、老舗といっても肩肘張ることはありません。江戸っ子の善悪の基準は、粋は善、野暮は悪。むしろ老舗ぶるのは野暮なことなのです。

榮太樓も屋台から始まったように、江戸の屋台スタイルは、ぱっと立ち寄ってはさっとつまんで、屋台をはしごするのを楽しむように、気軽にお店の人と会話を楽しみながら日本橋巡りをしてみてはいかがでしょうか。その際には、榮太樓にもぜひお立ち寄りください。

――ほかにも日本橋の魅力を教えてください!

細田:日本橋は「日本初、日本橋生まれに出会える町」でもあります。例えば、日本の郵便発祥の地。交通の利便性に優れた日本橋の地に駅逓司(後の郵政省)と郵便役所(現在の東京中央郵便局)が置かれ、ここから近代的な郵便事業がスタートしました。現在この地には「日本橋郵便局」があります。

早矢仕(はやし)ライスは、明治時代に丸善の創始者・早矢仕有的が友人たちに振る舞った料理が原型と言われています。日本橋丸善のオープン時にメニューに登場し、いまでは種類も豊富になっています。
また、今では珍しい明治30年創業の地図の専門店「ぶよお堂」には、古地図の復刻版を含め、あらゆる地図が置かれています。

他にもユニークなものでは、数々の美人画を残し大正浪漫を代表する天才画家として人気を博した竹久夢二が創業した港屋絵草紙店。大正3年(1914年)に、自らがデザインした小物を作り、日本橋呉服町(現在の八重洲1-2)に店を構え、粋を好む江戸の人々に愛され、いまも記念碑が残されています。その流れをくむ「港屋」は、現在日本橋浜町にあり夢二グッズなどを扱っています。

まだまだ話しきれないぐらいたくさんありますので、日本橋について調べていただき、実際に町歩きをしてみるのも宝探しのような気分で楽しいと思いますよ。

高速道路の地下化で本来の日本橋と川を取り戻し、新たな日本橋の魅力と賑わいをつくりたい

――日本橋では大規模な再開発が進められていますが、未来の日本橋にどのような期待をされていますか?

細田:私は、日本橋の地域再開発組合の理事長も務めていますが、これから日本橋はガラリと変わりますね。特に、高速道路の地下化は、何十年振りに日本橋の上に空と光が帰ってくるので、とてもうれしく思っています。

やはり、高度経済成長期に必要だった日本橋の上に架けられた高速道路も役割が変わって、日本の起点であった本来の日本橋や日本橋川が戻ってくることを何よりも期待しています。

時代とともに、日本橋の風景も変わってきましたが、ややビジネスや経済が優先されたことから、これまでは「『川に背を向けた町づくり』だったのではないか」と思います。丸の内などは、先端のグローバルビジネス拠点として現代的な町として発展してきましたが、日本橋の町の成り立ちから見ると、本来は川が表だったはずです。

だからこそ、これからの日本橋の未来を描くときには、まず川沿いを誰もが楽しく町歩きが楽しめる空間にして、かつての江戸のように多くの人で賑わう場所にしていきたいと思っています。将来的には、日本橋川で川遊びや水遊びができるようになればいいなと思っています。やはり、日本橋はいつまでも「ヒューマンスケールな町」でありたいですね。

また、今後は水路や水運をもっと活用していくべきだと思います。羽田から日本橋まで船を使えば、モノレールよりも早いし景観も楽しめます。水上バスやタクシーを走らせるのもいい。日本橋川の活用でさらに地域の活性化につながるといいですね。

榮太樓も、江戸の中心・日本橋で生まれ育ってきた企業として、日本を代表する多くの食文化が生まれたこの地を代表する和菓子屋であり続け、その可能性や新たな価値を追求していくことで、「日本橋のお菓子といえば榮太樓」と呼ばれるように、次の200年に向けて進化を続けていきたいと思います。

編集後記 インタビューを終えて

細田様へインタビューさせていただいたことで日本橋の新しい一面に触れることができ、働くことだけではなく町を楽しむことができる場所であると再認識しました。「川に背を向けた町づくり」という視点から見ると、今の日本橋は水辺を十分に活かせていないのかもしれません。かつてのように川を中心とした賑わいが戻れば、町全体が活気づき、多くの人が日本橋のさらなる魅力に気づけるようになるのではないかと思いました。

榮太樓總本鋪の歴史やこれからの展望について、こちらの記事でもご紹介しています。併せてご覧ください。


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