知られざる日本橋の復興物語「金融」の街・日本橋編【後編】

 前回は、商業センターとしての日本橋界隈を紹介しました。高度成長時代とともに、日本橋が成長した理由は各百貨店の台頭、中流層による購買力の高まりなどがありました。加えて、オフィスビルの建築が相次いでなされ、東京の中でも大きな存在感を示すことになりました。もちろんその萌芽は戦前よりありましたが、戦後はさらにパワーアップしました

金融の街「日本橋」

 次に金融センター街としての日本橋です。2021年のNHK大河ドラマの主人公は渋沢栄一でしたが、日本初の銀行を日本橋兜町に建築し、その後も金融関係企業が設立されることになります。特に東京証券取引所を設立した意味は大きく、「株の街」として発展します。最近では、平和不動産や、三菱地所などのデベロッパーがこの地域に着目し、新たな街づくりに着手しています。そして老舗企業だけでなく、若い経営者も集う街と変貌する日本橋界隈には大きな注目が集まっています。

常盤橋より現在の日本銀行旧館と日本橋三井タワー

金融センター街としても発展した日本橋

日本橋兜町や日本橋茅場町界隈は、明治、大正、昭和、平成とそして令和も引き続き、証券・金融関係の中心地。1874年には洋風のモダンな日本初の銀行「第一国立銀行」(現・みずほ銀行)が建設され、東京株式取引所も設立され、証券取引所の町として大いに繁栄することになりました。明治、大正、昭和、平成、令和の時代を通じて、「株の街」と言えば日本橋兜町です

日本最初の銀行の地 現在はみずほ銀行 兜町支店

そのため、周辺には、証券会社、銀行の支店、保険、商社、証券マン相手の旅館や飲食店が集中していた街で大変な賑わいでありました。当時の兜町と茅場町周辺を見ると、他の重要な金融関係の施設の集積地であることがよくわかります。2021年のNHK大河ドラマで主役であった渋沢栄一邸宅、日本興業銀行、旧三井銀行、三井物産、明治生命保険、旧富士銀行、三井物産など数えきれないほどの重要な企業・施設がありました。

敗戦後は、米軍に接収されていた東京株式取引所建物は、物資や資金の不足が続く中で市場施設の改修が行われることになり、兜町は「証券の街」として産業資金の調達と国民の資産運用の場として新生のスタートを切りました。以後、高度成長時代とともに発展を続け、政治の中心地「永田町」、行政の中心地「霞が関」と並び、「兜町」は日本金融経済の代名詞となっていきました。

1962年頃の兜町の様子(中央区立京橋図書館提供)

当時の日本橋兜町は、日本橋川、紅葉川、隅田川などに囲まれた地域にあり、「シマ」と呼ばれていました。証券マンや投資家以外の人たちは入りにくい、一種独特のムードが漂う場所でした。

しかし、バブル崩壊と同時に証券事務のシステム化も加速し1999年4月に場立ちが廃止され、人の姿が以前より少なくなると、金融機関も必ずしも兜町に事務所を設置する必要がなくなり、証券会社の移転が進むなど人の往来や街の姿が大きく変わりました。

1957年の兜町 昭和時代は大中小の証券会社が乱立していた (中央区立京橋図書館提供)
現在は東京証券取引所の裏手。正面の日証館は、いまもなお当時の趣きを残す

「証券マン」は若者の憧れの職業に

その後、昭和初期の名建築と謳われた旧東京証券取引所ビルは、50年の歳月を経て建物の老朽化が進んだことなどによって建替え工事が行われました。1982年に着工し、6年の期間を経て、1988年に完成しました。兜町のシンボルとなる風格を備え、内部は高度なインテリジェントビルとして、名実共に世界金融の一翼を担う拠点となりました。

現在の東京証券取引所

1980年代に描かれた証券業界の漫画『マネーウォーズ』では日本橋兜町のことも描かれていますが、情報を収集するために、証券業界の人々が集まっていた様子も描かれています。

70年代~80年代の日本橋兜町界隈は人間臭さがあり、個別株で勝負し、自分が勝負をかけている株の情報を証券業界紙に流した投資家もいました。

当時の兜町の人間臭いドラマでは、日興証券営業部長がモデルの『小説兜町』『兜町物語』(作者・清水一行氏)が有名でこの小説に惹かれた若者が証券業界の世界に入ったことはよく知られています。

今は落ち着いている日本橋兜町もかつては場立ちも含め多くの人が行きかう街でした。現在は、情報もネットで取得できるため、日本橋兜町に人が集まる必要もなくなり、当時の熱量を知る人からすると、少し寂しさを感じるかもしれません。

バブルの崩壊。東急日本橋店が閉店し、日本橋の勢いが後退

バブルに沸いた日本橋兜町も、バブルの崩壊や時代の流れとともに雰囲気は変わり、時を同じくして、日本橋全体の賑わいも失速します。1998年、大手百貨店「東急日本橋店」が閉店し、日本橋の商業地としての勢いが後退したことを決定づける、象徴的なできごととなりました。

白木屋の名は、東急百貨店閉店後も「白木屋の井戸」石碑として残る

1985年から1998年にかけて地方銀行などの金融機関が日本橋から撤退し、いつの間にか、「日本橋は衰退している」との声もささやかれるようになりました。日本橋の産業ともいえる金融・証券業は金融自由化と不良債権処理に追われ、伝統的な商業も地盤沈下が起こっておりました。また、百貨店という業態そのものもネット商流の台頭でこちらも衰退している時期とちょうど重なっていました。

「日本橋再生計画」で蘇る日本橋

三井不動産が主導する日本橋再生計画は本格始動

現在のCOREDO日本橋(日本橋一丁目ビルディング)

こうした背景もあり、官民連携で日本橋を再生しようという動きが出てきます。三井不動産が主導する日本橋再生計画が本格的に始動するのです。2004年3月、閉店した「東急日本橋店」の跡地に、開発した新しい商業施設「COREDO日本橋(日本橋一丁目ビルディング)」がオープンしました。

さらに2019年、日本橋室町三井タワー・COREDO 室町テラスの開業をもって日本橋再生計画は第3ステージへと進みます。

『にぎわいのある通りづくり』『食の提案』『夜のにぎわいの再生』『ライフスタイルショップの集積』という4つの切り口で店舗を誘致しているのが三井不動産の方針です。江戸時代のように活気にある街へと再生をめざしているところです。

COREDO 室町テラスはランチ、夜もにぎわう

「フィンテック」の若手経営者を呼び込む平和不動産

一方、日本橋兜町の街の再生の主役は平和不動産です。平和不動産は、「日本橋兜町再活性化プロジェクト」を推進していますが、三菱地所と協業体制を強化しています。三菱地所は「丸の内」の大家さんとしてよく知られているデベロッパーですが、ここ近年、「丸の外」での開発を積極的に推進しています。現在、平和不動産は日本橋兜町周辺エリアの物件のおよそ4割を保有し、東京証券取引所の大家でもあります。そこで、「人が集い、投資と成長が生まれる街づくり」を街づくりコンセプトとして掲げ、兜町の持つポテンシャルと周辺の街の機能との融和による、「兜町らしさ」の再構築を目指しています。

平和不動産は、「KABUTO ONE」という再開発プロジェクトを実現させ、徐々に日本橋兜町の再生を行っています。

2021年8月に竣工した「KABUTO ONE」(出典:平和不動産HP)
国際金融都市構想の一翼を担うことを目指す兜町地区(出典:平和不動産HP)

現在、東京都は、国際金融を取り巻く大きな環境変化に的確に対応し、 国際金融都市としての東京の地位を確立していくため、「『国際金融都市・東京』構想2.0」を策定したところです。この構想の一翼に兜町地区が担うというのが平和不動産の構想であり、兜町は、日本橋、大手町、丸の内と役割を分担していくことを目指しています。そこで金融とITを融合した「フィンテック」と呼ばれるサービスを手がける若手経営者を兜町に呼び込みを図り、街の若返りをはかっているところです。

生きている日本橋

こうしてよく見ますと、つくづく街はいきものであることがよくわかります。絶えず手を入れ、活性化する手段を講じていかないと、街は衰退します。

そうならないためにも街は世代交代を重ね、魅力あるものにしていく必要があると感じます。そのための手段として、再開発、建物更新、新たな企業誘致、都市景観の誘導、イベントの開催、働き方改革などを総合的に取り入れ、それを官民連携で実施していくことが肝要といえます。街は常に自由で革新的な思考を取り入れていかなければ老いていくのです

今回は、日本橋の戦後から日本橋再生計画の直前までを主に紹介しましたが、日本橋も決して順風満帆の歩みではなかったことがわかります。しかし、この数年を見ても、日本橋再生計画や日本橋兜町、茅場町の再開発の具体化により、どんどん若者が呼び込まれております。

今、各地区で街の再生が呼びかけられていますが、この日本橋の再開発やビジネスの歴史をひもとくことが大きなヒントになると思いました。

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