知られざる日本橋の復興物語 「百貨店」の奮闘・躍進編【前編】

金融、商業地域として発展を続ける日本橋。その秘訣はあくなき革新の歴史があった。

日本橋が動けば江戸時代以降の日本史も動く。

それほど日本史における日本橋界隈の役割は大きく、それは現在も変わりません。

たとえば、「三井越後屋呉服店」は後に「三越」と発展し、呉服屋から百貨店へと変貌したことが百貨店のはじまりです。また、江戸時代に金の小判の鋳造にあたっていた場所は、「金座」であり、これが現在の日本銀行にあたり、日本の最初の銀行である「第一国立銀行」も日本橋兜町で誕生しています。

そのため、明治維新後も金融センター、一大商業センターとしての役割を担うことになります。その後、太平洋戦争では日本橋はほかの東京の地区と同様に空襲に遭います。特に1945年3月10日未明の東京大空襲は日本橋地域にも大きな被害をもたらしました。終戦を迎えた後、日本橋地区はどのように復興し、再建したか。今回は、知られざる日本橋の復興物語とバブル時代、バブル崩壊、さらには日本橋再建計画の直前までをご紹介したいと思います。

関東大震災や東京大空襲にも耐え抜いた日本橋

終戦時、日本橋で麦をつくっていた時代も

終戦によってとりあえず、空襲や戦火の危険だけは免れることができました。しかし、まず戦争中も同様であったように戦後直後もあらゆるモノの不足が襲い掛かってきました。コメなどの食料品は配給制度でしたがそれだけでは当然不足します。

そこで東京をはじめ全国で闇市が次々と誕生します。闇市は食料品だけではなくいろんなものが売られ、東京都内では、新宿をはじめ上野、新橋、池袋などで闇市での商売が活発化します。闇市の誕生は、新宿と言われ、「光は新宿より」のスローガンとともに、闇市「新宿マーケット」が生まれたのは、終戦からわずか5日後のことでした。これが全国各地に伝播し、闇市が形成されていったのです。小規模ながらも日本橋界隈でも闇市がありました。

昭和通り 中央分離帯は菜園として利用されていた

この当時の日本橋も食糧難に悩まされていたため、なんと日本橋で麦を育て刈り取っていた時代でした。日本橋の昭和通りでは、すでに戦時中から広い道路の中央分離帯一帯は麦畑や、カボチャ畑や菜園に変えていたのです。

戦時中も日本橋の百貨店は営業していた

昭和30年代の日本橋でこのころはかなり復興していることがわかる
(出展元 写真で見る日本15 1957年 世光社)

闇市はその後、3年ほど続きますが食料品がコメを除いてすべて配給制度でなくなったため、各地の闇市は急速になくなり、次第に商店街を形成したケースもあります。東京ではアメ横がその代表例です。闇市の消滅とともに、日本橋を含めて街全体が本格的に復興へと歩みだします

また、意外かもしれませんが、戦時中や戦後直後も日本橋の百貨店は営業していました。

『株式会社三越100年の記録』によると日本橋三越本店は、1943年のものと思われる売場案内には、軍刀・慰問品・防空用品売場や更生承り所、南方生活相談所など時代を映した内容がみられ、戦時中でも営業が続けられていました。ただ、営業していたとはいえ、1937年の第一次百貨店法の制定により、百貨店としての営業,店舗の新設・増床,閉店時刻,および休業日などに関しては、商工大臣による許可制であり、実際この時期からあらゆるものが戦時統制経済下に入り,小売りの営業活動そのものが満足に行えないような状態となっていました。

戦後復興へ 日本橋の百貨店の奮闘

戦後復興した日本橋通り

戦後、第一次百貨店法は、GHQ (連合軍総指令部)の指令により廃止されることになり、結果的には、法としてほとんど適用されることなく終わりました。百貨店が多い日本橋にも好影響を与えるかに思われましたが、当時、生産や流通システムが機能していないため、日本橋三越や日本橋高島屋も販売に苦労しています。それでも日本橋三越は1946年12月には戦後初のクリスマスセールと大歳市を開催しています。

江戸三大呉服店のひとつで後に先駆的百貨店に成長した白木屋も、戦後は苦しい状況が続きました。進駐軍向けの配給所に供出させられ、すぐに通常の営業に戻れなかったため、一時期キャバレー「クラブシロキ」として営業したほか、1947年にはNHKに一部をラジオ劇場として賃貸するなど、百貨店以外の事業で辛うじて存続していました。後にこの名門である白木屋は、東急百貨店に買収され、商号・店名ともに「東急百貨店日本橋店」へと改称しました。

また、高島屋も大阪店と東京店で1949年4月からシルクフェアを開催しています。この時の主な顧客はGHQや米軍で、当時は米軍なくしては商売が成り立たなかったのです。しかし、米軍頼みの商売は経済の復興、朝鮮戦争の特需景気、1951年のサンフランシスコ講和条約の締結により終わりを告げます。

日本経済の復活。日本人の好みが欧米風へ。そのきっかけは百貨店にも

日本経済が復活し、百貨店に裕福な日本人が戻ってきたのもこの頃です。しかし、一時期の欧米人の客を取り込んだことは今後の百貨店業界だけではなく、日本人の好みも欧米風にシフトしていく大きなきっかけとなりました。

百貨店の主力商品は、元々は呉服屋からスタートした日本橋三越のような例もあり、衣服やアパレルに強みを発揮していました。戦時体制前の1920年からは工業化の進展で、すでに戦前から洋服の需要が膨らんでいました。この時には、レナウン、オンワード樫山、その後も三陽商会やワールドなどのアパレルメーカーが誕生しています。

戦後復興が予想以上に早く、西ドイツのラインの奇跡と同様に世界から日本の奇跡と称賛されましたが、戦時体制を除けば戦後の経済成長の萌芽は戦前からあったのです。

高度成長とともに波に乗り流行の先端となった百貨店

江戸時代から続く日本橋三越本店

高度成長時代には欧米風文化を求める顧客のニーズに対して、日本橋三越や日本橋高島屋などの百貨店業界はうまく応え、海外のアパレルや商品のフェアを開催し、海外の有名ブランドを店内に導入したりと、海外とのかかわりを強め、百貨店は流行の発信基地であり、日本橋はその一角を占めていたのです。

また、一方、アパレルメーカーとの連携を深め、季節ごとにアパレルメーカーは新商品を開発し、日本の高度成長とともに日本人の好みのファッションをしたてあげ、百貨店業界の地位は一時期不動なものとなっていました。1965年ごろにはかつての賑わいを完全に取り戻し、日本橋は商業の街であるとともに、ビジネス街の集積地としても発展します。この百貨店が流行の先端という地位はバブル崩壊まで続きます。

後編では、金融街の誕生~バブル崩壊~日本橋再生計画までを紹介いたします。

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